【イベント】「朧月下の宵桜」(後記)

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 冷たい風が、山の尾根を静かに渡っていた。

 都の北。
 人も寄りつかぬ深山の奥。
 黒き巨岩――殺生石は、今なお大地へ根を張るように鎮座していた。

 かつて都を揺るがした大妖と怨念。
 その残滓を封じ続けるため、石の周囲には幾重もの術式が刻まれている。

 封呪。
 鎮魂。
 浄化。

 長い年月をかけ、安倍春霞が築き続けてきた結界であった。
 淡い霊光が夜気の中で静かに脈打っている。
 春霞は石の前へ膝をつき、静かに印を結んでいた。

 白い息が細く夜へ溶ける。
 その背へ、不意に足音が近づいた。

「……兄上」

 懐かしい呼び名だった。
 春霞は静かに振り返る。
 そこに立っていたのは主上、いや、朝成だった。

 帝の装束ではなく、簡素な狩衣姿。
 だが、その立ち姿にはなお、この国を背負う者としての気配が残っていた。
 春霞は深く頭を垂れる。

「主上」

 朝成は小さく苦笑した。

「ここには供もおらぬ、昔のように呼んではくれぬのか」

「……できませぬ」

「昔から変わらぬな、兄上は」

 春霞は何も答えなかった。
 風が吹く。
 殺生石の周囲へ刻まれた術式が淡く揺らぎ、青白い光を夜へ滲ませた。
 朝成はゆっくりと石へ歩み寄る。
 黒い表面へそっと手を触れ、小さく目を伏せた。

「余は今でも夢を見る」

 静かな声だった。

「庭で笑う真々藻を。
 月を見上げる真々藻を。
 余へ菓子を勧め、嬉しそうに笑う真々藻を」

 春霞は黙って耳を傾けていた。

 封印の日。
 血に濡れ、苦しみに震えながらも、最後まで朝成を案じ続けた妖狐。

「余は……真々藻を救えなかった」

「いいえ」

 春霞は静かに答えた。

「真々藻様は、最後まで貴方様をお守りしようとしておられました」

 朝成は黙したまま、石を見つめている。

「その御心だけは、決して偽りではございませぬ」

 長い沈黙が落ちた。
 遠くで木々が鳴る。
 夜空には薄雲が流れ、僅かな月光が殺生石を照らしていた。
 やがて朝成は小さく息を吐いた。

「……鬼童院は滅びた」

「はい」

「だが、その名が残れば再び世が乱れる元凶ともなろう」

 朝成の声は静かだった。

「呪を求める者。
 力を求める者。
 他者を踏みにじってでも生き残ろうとする者。
 そうした者らは、いずれまた鬼童院の名へ縋るであろう」

 春霞は静かに耳を傾ける。

「ゆえに余は決めた、鬼童院を歴史より消し去ろう」

 風が吹いた。
 浄化陣の光が揺れる。

「兵部卿へも既に伝えてある。
 鬼童院の名も、戦いの記録も、すべて闇へ沈めよとな」

 鬼童院という存在そのものを、歴史から抹消する。
 それは容易なことではない。
 帝自らが動かねばならぬほどの決断だった。

「そして余はこの件が終われば退位する」

 春霞の瞳が僅かに揺れる。

「余が愚帝として退けば、都の乱れもまた余一代の過ちとして語られよう。
 そして鬼童院という存在も共に歴史の闇へ沈むのだ」

 その声音は穏やかだった。
 だが、その奥には確かな覚悟があった。
 春霞は静かに目を伏せた。
 それは観明院にも似た願いだった。
 民を守るため、自ら愚帝を背負う覚悟。
 朝成は穏やかに笑う。

「だから兄上ももう、朝廷へ縛られずともよい」

 だが春霞は、静かに首を横へ振った。

「……それはできませぬ」

「なぜだ」

「私は父上より、朝成様を守れと託されました」

 観明院。
 呪により病に伏しながらも、最後まで穏やかに微笑んでいた父。
 その最期の願い。

「私はあの日より今に至るまで、変わらず貴方様の臣でございます」

 朝成はしばらく黙っていた。
 やがて、小さく笑う。

「……頑固な兄上だ」

 その笑みは、幼き日の面影を残していた。
 庭を駆け回り、「兄上!」と無邪気に笑っていた幼い日の朝成。
 あの日々はもう戻らない。
 だが、それでも。
 二人の間に流れる情だけは、今も失われてはいなかった。

 風が吹く。
 春霞は再び印を結び、霊力を術式へ流し込んだ。
 淡い光が殺生石を包み込む。
 その光を見つめながら、朝成は小さく呟いた。

「……真々藻は、救われるだろうか」

 春霞は迷うことなく答えた。

「救われます」

 その声音には、一片の迷いもなかった。

「いつの日か。
 真々藻様の魂と朝成様の魂が再び巡り会うその日まで。
 私は、この封印を守り続けましょう」

 淡い霊光が静かに揺れている。
 それはまるで幼き兄弟二人で庭に立ち、共に見上げた秋の夕暮れの残光のようであった。