夜の御殿には、雨の音だけが静かに響いていた。
長い廊を濡らす雨脚は細く、まるで誰かの忍び泣きのようでもあった。
十二になった春霞は、灯の落とされた一室へと呼ばれていた。
室内に仕える者はいない。
御簾の奥に座しているのは、ただ一人――父である観明院のみであった。
春霞は静かに膝をつき、深く頭を垂れる。
「父上、お呼びにございますか」
返事はすぐにはなかった。
しばしの沈黙ののち、観明院はゆっくりと口を開いた。
「近う寄れ、春霞」
その声に、春霞は微かな違和感を覚えた。
優しい声であることに変わりはない、だが、その奥に深い疲れが滲んでいる。
春霞は顔を上げた。
行灯の灯に照らされた観明院の姿は、以前よりも明らかに痩せて見えた。
頬は落ち、指先には微かな震えがある。
それでも、その眼差しだけは穏やかで、春の日差しのような温かさを失ってはいなかった。
「父上……お身体が優れぬのでしょうか」
観明院は静かに微笑んだ。
「案ずるな、と申したいところだがな。どうやら我が命数も、そう長くはないらしい」
春霞の肩が小さく揺れる。
「そのようなことを……」
「聞きなさい、春霞。今宵そなたに伝えねばならぬことがある」
観明院の声は静かだった。
しかし、その静けさには、不思議と逆らえぬ重みがあった。
春霞は姿勢を正した。
「……はい」
外では雨が強くなる。
その音を聞きながら、観明院はぽつりと呟いた。
「我を蝕んでいるものは、病ではない」
春霞は目を見開いた。
「では……」
「呪だ」
短い一言だった。
だが、その言葉は冷たい刃のように春霞の胸へ沈んだ。
「呪……」
「うむ。そして、その呪を放っている者もまた、そなたへ伝えておかねばならぬ」
観明院はゆっくりと春霞を見た。
「我が兄、鬼童院だ」

その名を聞いた瞬間、室内の空気が冷えたように感じられた。
鬼童院。
観明院の実兄でかつて帝位継承の座にありながら、出家したと伝えられている人物。
幼い頃から春霞はその名を幾度か耳にしたことがあったが、宮中でその名を詳しく語る者はいない。
誰もが触れることを避ける名だった。
「鬼童院様が……父上を……?」
「出家した、というのは表向きの話に過ぎぬ。兄は帝位を退けられたのだ」
「退け……られた……」
「兄は幼き頃より、利を貪り、力をたのんで他者を虐げる性質であった」
観明院は静かに続ける。
「だが、兄に類する者たちにとっては人を惹きつける才に長け、人の欲を煽り、争いを呼ぶ。
先帝は恐れたのだ。もし兄が帝位につけば、この国はやがて破滅へ向かうと」
雨音が強まる。
まるで遠くで無数の囁きが響いているようだった。
「兄は『鬼神相』――人を破滅へ導く相を持っていた」
春霞は息を呑んだ。
鬼神相。
そんな言葉を聞くのは初めてだった。
「兄は帝位を奪われたことを、今も許してはおらぬ」
「それで父上を……」
「うむ。我を害し、自らが再び帝位へ戻ろうとしている」
観明院の声に怒りはなかった。
ただ深い哀しみだけがあった。
「兄は今なお都の闇に潜み、呪術師や反朝廷の者らを束ねている。
そして我のみならず……いずれ朝成をも狙うだろう」
朝成。
その名を聞き、春霞は思わず顔を上げた。
まだ十になったばかりの異母弟。
自分とは違う帝の嫡子だが、春霞にとっては本当の弟のような存在だった。
無邪気で、人懐こく、誰にでも優しい弟。
春霞の後ろをついて回り、「兄上!」と笑う姿が脳裏に浮かぶ。
「朝成様を……」
「朝成は優しい子だ。優しすぎると言ってもよい」
観明院は静かに笑った。
「あの子は人を疑うことを知らぬ。ゆえに、兄のような者に狙われれば危うい」
そして観明院は、真っ直ぐに春霞を見つめた。
「春霞」
「はい」
「朝成を守れ」
その言葉は静かだった。
だが、父としての願いと、主上としての命が、その一言には込められていた。
「そなたは帝位を継ぐ事はできぬ。呪術師の血が濃く流れているからだ」
春霞は黙って聞いていた。
そのことは、幼いながら既に理解している。
自分は帝にはなれない。
代わりに皇后の子である朝成がその座につく、それが定められた道だった。
「だが、だからこそ兄へ対抗できる。呪をもって呪へ抗えるのは、春香亡き後はそなただけだ」
春霞は静かに拳を握った。
自分が学んでいる陰陽の術。
呪術・札・星読み。
それらが何のために必要なのか、今ようやく理解できた気がした。
「父上……私は」
「兄として、朝成を支えてやってほしい」
観明院の声音は柔らかかった。
「血の違いなど関係ない。そなたたちは共に育った兄弟なのだから」
春霞は深く頭を下げた。
「……はい。必ず……
何があろうとも、私は朝成様をお守りいたします」
観明院は安堵したように微笑んだ。
しかし、その微笑みはどこか寂しげでもあった。
やがて観明院は、再び静かに口を開いた。
「そして春霞。まだ申しておかねばならぬことがある」
春霞は顔を上げる。
「そなたの母、春香のことだ」
その名に、春霞の胸が僅かに揺れた。
春香、春霞の母である。
幼い頃に亡くなったため、その記憶は薄い。
だが、柔らかな手の温もりだけは今も覚えていた。
「春香の死もまた、天命でも流行病でもない」
観明院の声が低くなる。
「あれも兄、鬼童院の手によるものだ」
春霞の呼吸が止まった。
「……母上が……鬼童院様に……?」
「父上、それは、まことでございますか。
母上は昔、急な病で亡くなったと、私はそう聞かされておりましたが……」
観明院は静かに目を閉じた。
「幼いそなたへ真実を告げれば、その心が憎しみに呑まれると案じたのだ」
そしてゆっくりと続ける。
「春香は、温かな人であった。兄はその春香さえ、我への呪の一つとして奪った」
春霞の脳裏に、ぼやけた記憶が浮かぶ。
優しく髪を撫でる手。
春の花のような香。
柔らかな笑顔。
その全てが、誰かの悪意によって奪われた。
「……父上」
声が震えた、心が憎悪で染まりそうになる。
「私は今まで、母上の死を天の理と思い、ただ受け入れるほかないものと信じておりました
まさか、その陰に鬼童院がいたとは……」
観明院は静かに春霞を見つめた。
「憎しみに呑まれてはならぬ。それこそ兄の望むことだ」
春霞は俯いたまま、強く拳を握った。
爪が掌へ食い込む。
それでも、その震えを止めることはできなかった。
「ですが父上……母上を奪い、父上を蝕み、朝成様まで狙うなど……」
「だからこそ、そなたが必要なのだ」
観明院の声は静かだった。
「怒りではなく、理で抗え。朝成を守るためにな」
長い沈黙が落ちた。
やがて春霞は深く頭を垂れる。
「……承知いたしました、この命に代えても、私は朝成様をお守りいたします。
そしていつの日か必ず、鬼童院の呪を打ち払い、母上の無念を晴らします」
それは安倍春霞の、すべての始まりだった
日時: 6月20日(土)22時開始
集合場所:禅都銀行前
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