【イベント】「朧月下の宵桜」(前記)

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 秋の終わりだった。

 乾いた風が、御所の庭に植えられた紅葉を揺らしている。池の水面には朱の葉が浮かび、白砂には細かな影が落ちていた。

 その庭を、幼い少年が駆けていく。

「兄上っ! 待ってください!」

 高く響いた声に、前を歩いていた少年が振り返った。

「朝成、走ると転ぶぞ」

 穏やかな声音だった。

 少年――春霞は、まだ十二になったばかりである。それでも物腰は落ち着いており、同じ年頃の童より幾分も大人びて見えた。

 対して朝成は十歳。

 春霞より二つ年下の、まだあどけなさを残した子供だった。

 朝成は春霞の袖を掴むと、息を切らしながら顔を上げる。

「兄上は歩くのが早いです」

「お前が遅いのだ」

「そんなことありません!」

 むっと頬を膨らませる朝成を見て、春霞は小さく笑った。

 その笑みを見るたび、朝成は胸が温かくなる。

 『兄』

 そう呼べる存在がいることを、朝成は心から嬉しく思っていた。

 春霞は異母兄である。

 だが朝成にとっては、本当の兄と何も変わらなかった。

 むしろ、何でもできる兄に幼い朝成は強い憧れを抱いていた。

「兄上、今日は何を教えてくださるのですか?」

「今日は弓だ」

 朝成の顔がぱっと明るくなる。

「弓! 昨日の続きですね!」

「ああ。お前は力任せに引く癖がある」

「う……」

「弓は腕で引くものではない。まずは息と姿勢を整えるのだ」

 春霞はそう言うと、庭の一角へ歩いていく。

 そこには小さな的が置かれていた。

 本来、帝の血筋は武を学ばない。剣も槍も、兵を率いる者が扱うものだ。

 帝は祭祀を司り、国の象徴として在る。

 だが幼い朝成は、春霞が扱う弓や術に強い興味を持っていた。

「兄上は何でもできますね」

「何でもではない、できる事だけだ」

「でも、書も上手ですし、術も使えますし、弓もすごいです」

 朝成は真っ直ぐに春霞を見つめる。

「ぼくも兄上みたいになれますか?」

 春霞は一瞬だけ目を伏せた。

 春霞は知っていた、朝成と自分では歩む道が違う事を。

 朝成はやがて帝となる。

 そして自分は、その傍らで朝成支える者になる。

 決して同じ道は歩めない。

 だが――。

「朝成は朝成のままでいい」

「え?」

「お前は、お前にしかなれぬ」

 春霞は静かに笑った。

「それでいいのだ」

 朝成は少しだけ首を傾げたが、やがて嬉しそうに笑った。

「はい!」

 春霞は弓を手に取る。

 静かに息を吸い、弦を引いた。

 次の瞬間、乾いた音とともに矢が飛ぶ。

 矢は真っ直ぐに進み、的の中心へ突き刺さった。

「わぁ……!」

 朝成が目を輝かせる。

「兄上、すごい!」

「騒ぐほどではない」

「でもすごいです!」

 朝成は春霞の周囲を駆け回る。

「ぼくもやります!」

「では構えてみろ」

「はい!」

 朝成は小さな弓を持ち、必死に弦を引いた。

 だが弦は途中でぶれてしまう。

「あっ」

 矢はあらぬ方向へ飛び、庭木の枝に引っかかった。

 朝成は肩を落とす。

「だめでした……」

「最初から上手くはいかぬ」

 春霞は後ろへ回り、朝成の腕をそっと支えた。

「肩の力を抜け」

「こうですか?」

「もっと……そう、そして息を整えるんだ」

 背後から聞こえる春霞の声は、不思議と落ち着いた。

 朝成は言われた通りに呼吸を整える。

 春霞の手が弓の向きを正した。

「焦らなくていい、しっかり狙うんだ」

「……はい」

 朝成の手から放たれた矢は前に飛ぶものの、的をはずしてしまう。

「……私も、兄上みたいに強くなりたいです」

「強さにも色々ある」

 自分の強さとは何なのか。

 術を学ぶことか。

 人を守ることか。

 あるいは――。

 春霞は空を見上げた。

「兄上?」

 朝成の声で、春霞は我に返った。

「どうしました?」

「……いや、何でもない

 春霞は微笑む。

 朝成は不思議そうにしながらも、再び弓を構えた。

「今度こそ当てます!」

「落ち着いて引け」

はい!」

 小さな矢が放たれる。

 矢は中心からは外れたが、今度は的に当たる。

「できました!」

「ああ、上出来だ」

 朝成は嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見ながら、春霞は静かに思う。

 守らねばならない、

 この笑顔を、この国を、父と母が愛するものを。

 たとえ自らが闇に踏み込むことになろうとも。

 朝成は何も知らぬまま、無邪気に春霞を見上げていた。

「兄上!」

「なんだ」

「また明日も教えてください!」

 春霞は少しだけ間を置き、やがて穏やかに頷いた。

「ああ」

 紅葉が風に舞う。

 その庭は、まだ平穏であった。