山道に夕暮れの気配が落ち始めたころ、玄道とおさきは峠の茶屋へ辿り着いた。
古びた茶屋は街道脇にぽつんと建っており、風に揺れる暖簾は色褪せ、軒先には長年の雨風に
晒された薪が積まれている。旅人の姿はなく、静かな山風だけが吹き抜けていた。
「こんにちは!」
おさきが元気よく声をかけると、店の奥から白髪の老婆がゆっくり姿を現した。老婆は二人を
見るなり、どこか険しい表情を浮かべる。
「……旅のお方かい」
「少し休ませてもらえぬか」
玄道が静かに言うと、老婆は頷き、湯気の立つ茶を二人の前へ置いた。
だが、茶を差し出した後も老婆の顔色は晴れない。むしろ何かを迷うように、何度も峠の向こうへ
目を向けていた。
やがて老婆は、小さく息を吐く。
「この先へ行くつもりなら、やめておいた方がええ」
おさきがきょとんと目を瞬かせる。
「どうして?」
「峠の向こうに村があったんじゃ。小さな村でな。畑を耕し、細々と暮らしておった」
老婆の声は次第に重く沈んでいく。
「じゃが少し前、妖魔が現れのじゃ」
山風が、戸をかたかたと揺らした。
「村人は皆殺しじゃ。逃げ延びた者もおらん。今では死人の村よ」
おさきの表情が曇る。
玄道は静かに老婆を見つめた。
「妖魔の正体は分かっているのか」
「誰も見とらん。生き残りがおらんのだからな……。
ただ、夜になると村から獣のような唸り声が聞こえるそうじゃ」
茶屋の中に、しばし沈黙が落ちる。
老婆はさらに声を潜めた。
「じゃがな……妙な噂もある」
「妙な噂?」
「滅んだ村で、童の姿が見を見かけるそうじゃ」
おさきが思わず顔を上げた。
「子供……?」
「幼い男の子らしい。夜の村を歩いていたとか、誰かを探して泣いていたとか……。
生きた子なのか、亡霊なのかも分からん」
老婆は首を振る。
「村へ近づいた者が、遠くから見ただけじゃ。誰も確かめようとはせん。
あんな場所へ近づきたい者などおらんからな」
おさきは黙り込んだ。
滅ぼされた村。妖魔。そこで彷徨う少年の霊。
小さな胸の中に、痛みのような感情が広がっていく。
「その子、一人ぼっちなんだね……」
老婆は困ったように目を細めた。
「さあな。だが、本当に村の子なら、家族は皆死んでおるじゃろう」
おさきはぎゅっと袖を握った。
「そんなの……かわいそう!!」
「お嬢ちゃん、霊に情をかけるものではないよ。この世には触れてはいかんものもある」
それでも、おさきは俯いたまま小さく首を振る。
「でも……誰も助けてくれないなら、その子はずっと一人ぼっち…」
玄道は黙っておさきを見ていた。
おさきはやがて顔を上げる。
その瞳には、不安よりも強い願いが宿っていた。
「玄道」
「……なんだ」
「その村に行こう!」
玄道は答えない。
だが、おさきはまっすぐ彼を見つめ続けた。
「その子を助けてあげたい!!」
老婆が慌てたように声を荒げる。
「正気かい!? 妖魔が出る場所じゃぞ!」
「でも、放っておけないよ…」
「命を落とすかもしれんのじゃ!」
それでもおさきは怯まなかった。
「その子が泣いいるなら、見捨てたくないもん!!」
静寂が落ちる。
やがて玄道は静かに目を閉じた。
妖魔が人を喰らい、魂を縛ることは珍しくない。
もし少年が亡者であるなら、そこには未練がある。あるいは妖魔の呪によって、この世へ繋ぎ止められているのかもしれない。
どちらにせよ、放置すれば救われぬ魂となる。
そして何より――。
玄道は小さく息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
「放ってはおけぬな」
おさきの顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
老婆は呆れたように肩を落とした。
「酔狂な旅僧もいたものじゃ……」
「村への道を教えてもらおう」
老婆はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように峠の先を指差した。
「この峠を越え、古道を北へ進め。だが日が落ちる前に辿り着けねば引き返せ。
夜の山は妖魔の縄張りになる」
「感謝する」
玄道は玄翁を背負い直した。
おさきも慌てて荷を抱え直す。
「おばあちゃん、ありがとう」
「礼などいらんよ。……生きて帰ってきなされ」
夕暮れの山道へ、二人は再び歩き出す。
滅びた村で彷徨う、名も知らぬ少年の魂を追って。
山の彼方には、すでに不吉な宵闇が静かに広がり始めていた。
