夜の帳が静かに降りた頃。
ブリテインの外れ、小さな庵の中に、柔らかな灯りが揺れていた。
古びた卓に向かい、Lowellは書物を広げている。
だがその視線は文字を追っておらず、どこか遠くを見つめていた。
「集中しておらぬな」
不意に背後からかけられた声に、Lowellは肩を震わせた。
振り返ると、そこには一人の女――いや、女の姿をした“何か”が立っている。
静かな微笑みを浮かべ、まるで昔からそこに居たかのように。
「……やはり来ておったか」
Lowellは小さく息をつき、苦笑する。
「やはりとは、ずいぶんな言い草じゃの」
「いえな、あれだけの事があった直後じゃ。来ぬ方がおかしい」
おさきはくすりと笑い、ゆっくりと歩み寄る。
その所作は優雅でありながら、どこか懐かしさを帯びていた。
まるで――遠い昔に知っていた誰かのように。
「エミリーは無事に眠っておる。心配はいらぬ」
「そうか……それを聞いて安心したわい」
Lowellは目を閉じ、深く息を吐く。
しばしの沈黙。
やがて彼は、ぽつりと呟いた。
「しかし……よいのか」
「なにがじゃ?」
「おぬしの命を分け与えたのだろう。」
おさきは少しだけ首を傾げた。
「確かに『命』は渡し長きに渡る旅を終えた。だが『我』そのものが消えたわけではない」
「……どういうことじゃ」
「言葉の通りじゃよ。命は流れ、形を変えるもの。我はその流れの一部を差し出したに過ぎぬ」
Lowellはしばし黙り込み、やがて苦笑する。
「やはりおぬしの話は、難解でかなわぬ」
「ふふ、昔からそう言われておったな」
その『昔』という言葉に、Lowellはわずかに眉を動かした。
だが追及はしない。
代わりに、静かに問いを重ねる。
「では……これからどうするつもりじゃ」
おさきは答えず、窓の外へと目を向けた。
夜風がそっと吹き込み、灯りが揺れる。
「なに、これまでもこれから先も変わらぬよ、見守るだけじゃ」
Lowellはその言葉を反芻する。
「……一族を、か」
「そうじゃ」
おさきは振り返り、まっすぐにLowellを見た。
その視線はどこまでも優しく――そしてどこか、深く温かい。
「おぬしが生きる限り、我は傍におるよ」
「……それは、わしのためか?」
「さて、どう思う?」
わざとらしくはぐらかすその様子に、Lowellは苦笑する。
「相変わらずじゃな……」
だがその声音には、どこか安堵が滲んでいた。
再び沈黙が落ちる。
だが先ほどまでのそれとは違い、どこか穏やかなものだった。
やがてLowellは、ぽつりと呟く。
「……不思議なものじゃ」
「なにがじゃ?」
「おぬしと話しておると、妙に落ち着く。何故じゃろうな」
おさきは一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに、柔らかな笑みに戻る。
「それはきっと、我が長く見守ってきたからじゃろう」
「見守ってきた、か……」
Lowellは静かに頷く。
その言葉を否定することはなかった。
――否定できなかった。
「……のう、おさきよ」
「なんじゃ?」
「もしも、じゃ」
Lowellは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「もしもわしが、もっと若かった頃におぬしと出会っておったなら……」
そこまで言って、ふっと笑った。
「いや、無粋な話じゃな。忘れてくれ」
(今更考えても娘夫婦は戻って来ぬのじゃしな……)
おさきは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ近づき――
ぽん、と軽くLowellの頭に手を置いた。
「……相変わらず、考えすぎじゃな」
その仕草は、どこまでも自然で。
まるで、子をあやす母のようであり――
孫を見守る祖母のようでもあった。
Lowellは一瞬きょとんとし、そして観念したように笑う。
「やれやれ……かなわぬな」
「当然じゃ」
おさきはくすりと笑う。
その笑みには、長い時を越えてきた者だけが持つ、静かな慈しみが宿っていた。
「安心せい、Lowell」
「……なにをじゃ?」
「おぬしが死ぬまでは傍らにいてやろう、600年以上も生きてきたのじゃ、あっという間じゃよ」
Lowellはゆっくりと目を閉じる。
そして、小さく頷いた。
「……そうじゃな」
もう、それ以上の言葉はいらなかった。
夜は静かに更けていく。
灯りはまだ消えない。
その小さな庵の中で――
一人と一つの存在は、言葉少なに、だが確かに同じ時を過ごしていた。
それは血の繋がりを超えた、奇妙で――
そしてどこまでも温かな縁。
やがて訪れる別れの時まで。
おさきは傍に在り続ける。
ただ静かに、優しく。
見守るために。
