【イベント】旅の終り(後記2)

夜の帳が静かに降りた頃。
ブリテインの外れ、小さな庵の中に、柔らかな灯りが揺れていた。

古びた卓に向かい、Lowellは書物を広げている。
だがその視線は文字を追っておらず、どこか遠くを見つめていた。

「集中しておらぬな」

不意に背後からかけられた声に、Lowellは肩を震わせた。
振り返ると、そこには一人の女――いや、女の姿をした“何か”が立っている。
静かな微笑みを浮かべ、まるで昔からそこに居たかのように。

「……やはり来ておったか」

Lowellは小さく息をつき、苦笑する。

「やはりとは、ずいぶんな言い草じゃの」

「いえな、あれだけの事があった直後じゃ。来ぬ方がおかしい」

おさきはくすりと笑い、ゆっくりと歩み寄る。
その所作は優雅でありながら、どこか懐かしさを帯びていた。
まるで――遠い昔に知っていた誰かのように。

「エミリーは無事に眠っておる。心配はいらぬ」

「そうか……それを聞いて安心したわい」

Lowellは目を閉じ、深く息を吐く。
しばしの沈黙。
やがて彼は、ぽつりと呟いた。

「しかし……よいのか」

「なにがじゃ?」

「おぬしの命を分け与えたのだろう。」

おさきは少しだけ首を傾げた。

「確かに『命』は渡し長きに渡る旅を終えた。だが『我』そのものが消えたわけではない」

「……どういうことじゃ」

「言葉の通りじゃよ。命は流れ、形を変えるもの。我はその流れの一部を差し出したに過ぎぬ」

Lowellはしばし黙り込み、やがて苦笑する。

「やはりおぬしの話は、難解でかなわぬ」

「ふふ、昔からそう言われておったな」

その『昔』という言葉に、Lowellはわずかに眉を動かした。
だが追及はしない。
代わりに、静かに問いを重ねる。

「では……これからどうするつもりじゃ」

おさきは答えず、窓の外へと目を向けた。
夜風がそっと吹き込み、灯りが揺れる。

「なに、これまでもこれから先も変わらぬよ、見守るだけじゃ」

Lowellはその言葉を反芻する。

「……一族を、か」

「そうじゃ」

おさきは振り返り、まっすぐにLowellを見た。
その視線はどこまでも優しく――そしてどこか、深く温かい。

「おぬしが生きる限り、我は傍におるよ」

「……それは、わしのためか?」

「さて、どう思う?」

わざとらしくはぐらかすその様子に、Lowellは苦笑する。

「相変わらずじゃな……」

だがその声音には、どこか安堵が滲んでいた。

再び沈黙が落ちる。
だが先ほどまでのそれとは違い、どこか穏やかなものだった。
やがてLowellは、ぽつりと呟く。

「……不思議なものじゃ」

「なにがじゃ?」

「おぬしと話しておると、妙に落ち着く。何故じゃろうな」

おさきは一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに、柔らかな笑みに戻る。

「それはきっと、我が長く見守ってきたからじゃろう」

「見守ってきた、か……」

Lowellは静かに頷く。
その言葉を否定することはなかった。
――否定できなかった。

「……のう、おさきよ」

「なんじゃ?」

「もしも、じゃ」

Lowellは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

「もしもわしが、もっと若かった頃におぬしと出会っておったなら……」

そこまで言って、ふっと笑った。

「いや、無粋な話じゃな。忘れてくれ」
(今更考えても娘夫婦は戻って来ぬのじゃしな……)

おさきは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ近づき――
ぽん、と軽くLowellの頭に手を置いた。

「……相変わらず、考えすぎじゃな」

その仕草は、どこまでも自然で。
まるで、子をあやす母のようであり――
孫を見守る祖母のようでもあった。

Lowellは一瞬きょとんとし、そして観念したように笑う。

「やれやれ……かなわぬな」

「当然じゃ」

おさきはくすりと笑う。

その笑みには、長い時を越えてきた者だけが持つ、静かな慈しみが宿っていた。

「安心せい、Lowell」

「……なにをじゃ?」

「おぬしが死ぬまでは傍らにいてやろう、600年以上も生きてきたのじゃ、あっという間じゃよ」

Lowellはゆっくりと目を閉じる。
そして、小さく頷いた。

「……そうじゃな」

もう、それ以上の言葉はいらなかった。
夜は静かに更けていく。
灯りはまだ消えない。

その小さな庵の中で――
一人と一つの存在は、言葉少なに、だが確かに同じ時を過ごしていた。
それは血の繋がりを超えた、奇妙で――
そしてどこまでも温かな縁。

やがて訪れる別れの時まで。
おさきは傍に在り続ける。
ただ静かに、優しく。
見守るために。